目次
1章.ザロメとフロイト
➀精神分析に繋がるザロメの著作■■②フロイトとの出会い■■③アドラーとフロイトの対立の狭間で■■④フロイトと精神分析家としての活動

2章.1920年代とウィーンの精神分析
➀1920年代頃のウィーンと精神分析■■②カール・ポパーとアドラー■■③精神分析と精神医学の交流■■④アンナ・フロイト

3章.エリク・H・エリクソン
■➀青年期■■②アンナ・フロイトのウィーンの学校■■③アメリカへとその影響■

4章.ナチス内閣成立とピーター・ドラッカー

5章 マーガレット・S・マーラー
■①フロイト一派との関わり■■②アメリカへの渡米と精神分析への寄与■■③スポック博士■
 
 1900年代初頭に精神分析を作り出したフロイトの反響は高く、アドラーやユングなど優秀な人材が集まってくるものの、1910年代にはアドラーやユングはフロイトのもとを去る流れになってくる。
 そんな中、哲学者ニーチェから直接教えを受けたこともあるルー・アンドレアス・ザロメがフロイトのもとにやってくる。
 
ザロメは男性との多くの交友などを通して(ニーチェもその一人)、女性の「性」について考える事が多くなりエッセイなども発表してた。そんな中、「性理論」を根幹とした精神分析は、ザロメにとって新しい眼差しを与えてくれるようにも感じた。
一方、フロイトの方も、ニーチェの中に精神分析的要素を見出していた。ユングも、精神分析を捉える無意識の働きとして、フロイトが扱う性理論をベースとしたトラウマ的な物と、ニーチェやアドラーに代表される生きる事への衝動に分類されるといっている。丁度フロイトのいたウィーンにおいては亡きニーチェの妹が滞在していて、フロイト一派はニーチェ的影響を妹に伝えている。そんな事もあったから、フロイトはニーチェを良く知り更に精神分析の才能のあるザロメに興味を持ち、またザロメもニーチェ的文脈もあり精神分析をより早く理解できた。そのため、師弟関係となる事になった。ザロメは対立しているアドラーにも教えを受けたが、フロイトの方を支持している。
 
 ザロメがフロイトの一派の中でほぼ最初の女性精神分析家となるのだろうが、続けてヘレーネ・ドイチェという女性がフロイトの研究会に参加しようと訪れると、ザロメの論文をテーマとして入会試験を受けている。こうして、男性たちで構成されていたフロイト一派にザロメとヘレーネの2人の女性が加わり、印象も変わってくる。とりわけ、ザロメとヘレーネは女性の精神分析という方面の思考を深めた印象がある。
 ザロメは精神分析家となるも旦那の仕事も関係もありウィーンを離れるも、ヘレーネはウィーンにおける女性精神分析家として才能を伸ばし、1925年にはウィーン精神分析訓練所を設立し更には初代所長となる。
 
 そんな中、フロイトの娘であるアンナ・フロイトは学校の教師をやっていたのだが父の影響をじわじわと受け、父フロイトの癌をきっかけに本格的に精神分析の道を歩むことを決める。アンナ・フロイトはザロメと交友を持ち教えを受け、ヘレーネには教えを受けると共にヘレーネが設立したウィーン精神分析訓練所の所長を引き継いだり、新しい学校を作ったりする。
 アンナ・フロイトがとりわけ切り開いた分野は「児童精神分析」だった。
 
 もっとも、このアンナが開いた「児童の分野の精神療法」の道は1920年代のウィーンにおいてはとりわけ熱い分野だった。フロイト自身も児童への方向性の必要を説き、精神分析と生理学的なアプローチをする精神医学の人々が児童の分野において積極的に交流した時期でもあった。アスペルガー症候群を発見するハンス・アスペルガーが学ぶ下地が作られたのもこの児童の分野への交流があるし、メラニー・クラインはアンナと並ぶ児童の分野の巨頭とされた。
 
 そして、アンナとヘレーネがすすめる精神分析の普及のもとで1920年代後半に学びに来ることになるのが、エリク・エリクソンとマーガレット・マーラーである。
 エリクソンは最初はアンナが作った学校に画家の講師として雇われるが、次第に才能を認められアンナから精神分析の指導を受けている。
 一方、マーラーはフロイトの教えを受けようとウィーンを訪れ、ヘレーネから教えを受け、更にはアンナと交友を深め精神分析を学んでいく。
 
 このエリクソンとマーラーが独自性を示してくるのは、1930年代のアメリカにおいてである。それは二人ともナチス政権によりユダヤ人が作り出した精神分析が迫害を受けることになり、アメリカに渡ったことが背景にある。
 エリクソンは、フロイトの精神の発達段階考えを更に深め、アメリカの青少年の不良少年とカウンセリングし更生させる功績で作り出した、「ライフサイクル・モデル」を考案する。これは「アイデンティティ」という概念で上手く説明したため、「アイデンティティ」の発見者とも言われる。
 一方、マーラーは「乳児の心理」というものを精神分析的な考えから読み解き唱え始める。マーラーはスポック博士ともアメリカで交流していて、当時ワトソンの行動主義などが主流であった行動主義から行動によって育児を考えられていた風潮を、精神の発達という観点から精神分析的発想をもとに解釈し、乳児の心の発達と愛着などを考える「スポック博士の育児書」として影響を及ぼしていて、「スポック博士の育児書」は世界的なベストセラーになっている。

1章.ザロメとフロイト

 ニーチェとの交友で有名なアンドレアス・ザロメだが、後期にフロイトのもとで精神分析を学んでいる。

 ザロメの父は、プーシキンを生み出す政治弾圧をしたりプチャーチンを配下においたニコライ1世のもとの、陸軍トップであったようだ。ロシアでのザロメはイプセンなどの文学を学ぶも教師などとの関係などから恋愛に嫌気がさし、スイスに留学し純粋な学びを追求する仲間のような集まりを志向しニーチェなどを紹介される。ニーチェの教えることを非常によく理解し、一日の多くの時間を割いて会話をしていることもあった。ただニーチェとも恋愛関係の話が出てきたため、ザロメは「ニーチェはひとりでいた方が本領を発揮する」というようなことを告げて訣別する。

 それから約30年後に1911年フロイトのワイマルで開催された国際精神分析学会にザロメは参加しフロイトを紹介してもらう。一方、ワイマルにはニーチェの妹がニーチェ文庫の館長として活動していて、フロイト派のものがニーチェはフロイトの考えを予見するかのような事を言っていたと話す。色々な意味でニーチェとフロイトの結びつきとなった瞬間のようだ。

 もともと性などの衝動が引き起こす無意識のような問題に考えを巡らせていたザロメはフロイトのいるウィーンに6ヵ月ほど滞在して学ぶ。このとき、フロイトはアドラーと対立し、ユングとは意見の対立が深まって行きそうなときであった。ザロメはアドラー派の会合にも参加したりして、フロイトとアドラーの対立に巻き込まれている。

 しかし、フロイトの考えは、慣習やタブーに抑圧されず行動してきた自分を肯定してくれるような考えであったためもあり、ザロメはフロイト派に落ちつく。その後、フロイトの娘のアンナとも非常に仲良くなり、フロイトとフロイト派ともに友好的な関係が続いたようだ。また夫の仕事の関係でゲッティンゲンで精神分析家としてザロメは活動した。

■➀精神分析に繋がるザロメの著作■

 ニーチェとの交友は1883年に終わった後、1897年に既婚者になっていたザロメは、リルケと出会い、1900年にはザロメの故郷でもあるロシアに2度ほど旅行している(1898年にも夫とリルケとザロメでロシア旅行しとるトルストイと会っている)。リルケはその後、ロダンやセザンヌと会っている(英語版wiki「Rilke」参照)。

 その後、精神分析に繋がるような2つの著作を書いている。

 1902年に短編集『中間地帯』を執筆。

 彼女の関心は彼女が接したひとびとの内部にさぐりを入れることのほうに、ますます傾いていった。何がかれらにこういう行動をとらせたのか?どんな力がかれを制止させ、あるいは引き裂いたのか?といったような疑問が、つねに彼女を魅惑したものだ。いまや彼女はそういう問題と真剣に取り組んでいた。彼女は自分の経験から、性愛が男女の人生においてもっとも強い力のひとつであることを知っていた。それは『中間地帯』の中心テーマであった。

 その本は、自分の若い娘に対する父親の情熱的な愛、新婚そうそうの夫の不実などの問題を扱っている。第4話では、「妹」と題され、ひとりの男を愛し死んでしまった女性を。

 ルーは一再ならず愛の運命的な力を感じてきた。そしてそれが、偽りの恥じらいや慎しみを棄てて研究するに値するものであると結論したものである。※11

 1910年に『エロティーク』を執筆。

 社会学研究誌の編集をしていたマルチン・ブーバー(オーストリア生まれのユダヤ人哲学者。ユダヤ教の文化的意義の再認識に貢献した。エルサレムのヘブル大学社会哲学教授。1878~1965)に勧められて、彼女はそれを主題にした本を書いた。※11 ブーバー(Martin   Bubber)はカント、キルケゴール、ニーチェなどに親しむうちに哲学に興味を示し1896年に再度ウィーンへ戻って哲学、美術史、歴史などの勉強に勤しんだ。

 『エロティーク』では、性愛は飢渇と同じくまず第一に肉体的欲求であり、そういうものとして見る場合にのみ正しく理解されるものである。それは純粋にかつ単純に動物的な力であるが(肉体の純生理的作用に結びついて見られる)、ただ、高級動物としての人間にあっては、性衝動は脳髄に働きかけて神経を興奮させる。つまり性は感動となる。しかしながら、実際には、いかなる動物的欲求も急速に充たされ、変化を求めてやまない。したがって、「自然界の愛の生活は、そのあらゆる発現において、そして多分なによりもその最高度の形態において、不実の原則にもとづくものである。」

 性衝動のかげには、全的な結合への欲望がある、とルーは言う。

 それは、たとえばアメーバのような単細胞動物の生殖において、もっとも明確に見ることができる。

 全的な結合は全的な自己放棄を意味する。これは人間にとって不可能だから、人間は、愛のパートナーとの合一を渇望すると同時に、自分自身の存在をあらため実感するのである。  

 性愛と芸術的創造力と宗教的情熱は同じ生命力の3つの異なった相にすぎない。

 なぜなら宗教的熱情でさえも、われわれの最高の夢すらもっとも地上的な土壌から生まれるという確信をもたないかぎり、存在しえないからである。

 われわれは誰しも人生の伴侶を必要とする。しかしわれわれは、愛という回春の力をも必要とする。それなくして、われわれの人生は灰色のむなしいものとなる。

 彼女は愛を自然力と考えていたからこそ、ヴィクトリア朝の同時代人が説く偽りの慎みにも、多くの解放された女性が実践していたきまぐれな情事にも等しく反対したのである。※11 

 Salome had written about the psychology of female sexuality before she ever met Freud, in her book Die Erotik(1911). (wiki:Salome)

■②フロイトとの出会い■

 1910年にフロイトとユング(1907年に両者は出会っている)は、ユングの紹介でアメリカに講演旅行(クラーク大学など)に出ている。その際、ウィリアム・ジェームズと会っている(ウィリアム・ジェームズはその年に亡くなっている)。

 そしてその年に国際精神分析学会が設立され、会長にユングが2年の期限付きでなることと事務局はウィーンにすることが採択される。※12フロイトでなくユングなのは、ユダヤ人以外を会長に選ぶ目的があったためである。(wiki「ユング」)

1911年、ザロメは50回目の誕生日に合わせて『鏡の中に』を書く。この文を書いてから間もなくルーはフロイトと会い、彼女が作家として表現しようとしていたこれら意識化の生命力に対する洞察が、精神分析によって得られることをかれに学んである。※11

 1911年9月21日に国際精神分析学会ワイマル会議が開会。

スウェーデンのサイコ・セラピエストのポウル・ピエレによって参加できる事になり、また会議のはじめにフロイトを紹介されたようである。またワイマル会議の町にはニーチェの妹のエリーザベトがニーチェ文庫の館長として精力的に活動していた。そしてフロイトといちばん親しい協力者のうち二人がエリーザベトを訪ね、ニーチェがフロイトの発見したことをすでに数多く予見していたと伝えたりしたようだ。一方ルーはワイマルでいろいろ見聞するうちに、精神分析を本格的に研究しようと決心した。

その後、フロイトに手紙を送り、1912年10月にウィーンへ行き、半年ほどフロイトのもとでも学ぶ。この頃のフロイトはアドラーが袂を分かち、ユングまで離反しそうな気配が濃厚になっていた。※11

1912年、ユングは『リビドーの変容と象徴』を出版。

フロイトの「性理論」は、神経異常の原因の一部を説明するに過ぎない。ユングは各個人の深層心理の中には、人類全体に共通の無意識が残存していると考える。

これに縛られたとき人は神経症となる。そして、その束縛から逃れたときはじめて真の成長が訪れるとする。※12この時からフロイトとの関係が難しくなり、ユングは自らの方法論を「分析心理学」と呼んでフロイトのその他の学説と区別した。※12

■③アドラーとフロイトの対立の狭間で■

 ルーは、ウィーンにおいては、フロイトの講義ばかりでなくアードラーの講義にも出席を希望し、アドラー派とフロイト派のいざこざに巻き込まれ、最終的にはフロイト側につく。ルーをアードラーから離間させたものは、肉体的欠陥が精神障害の原因であるというアードラーの主張であった。ザロメの考えでは、どんな劣等感に対しても肉体的理由を見出そうとしたところで、精神分析の上からなにもえられないはずであった。またアードラーがフロイトのリビドー説を笑ってはねつけたことも間隙をさらに広くしてしまった。性衝動はもっとも広い意味で人間の行動の、さらには生命それ自体の主動力であるというフロイトの信念を、ルーも信奉していたからである。

 またフロイトは、社会が個人に課す抑制は、個人の衝動を強制的に抑圧することによって個人の発育を阻害する傾向があることを彼女に教えた。そう教えられると、自分の障害がいかに幸運であったか、社会の命ずるところに屈しなかったことがいかに正しかったかを、ザロメは理解できた。フロイトは意識が抑圧しようとする魂の一面に嫌悪や絶望を抱いていたが、ザロメはポジティブなイメージをもっていたようだ。※11

■④フロイトと精神分析家としての活動■

 6ヵ月滞在後、ザロメの夫がゲッシンゲン大学の招聘を受けたため、ゲッティンゲンで精神分析の分析家として開業している。

 1913年、ミュンヘン(チューリッヒとも)での国際精神分析学会にてユングの革新をフロイトの精神分析を正当に受け継ぐものとは認めないとする。※12これにてユングは離別する。

1912年~1913年『フロイトの学派での1年間の日記(In der Schule bei Freud-Tagebuch eines Jahres)』という著作もある。またSigmund Freud-Lou Andreas-Salom: Briefwechsei(文通:1966年出版)もある。

Salome was one of the first female psychoanalysts and one of the first women to write psychoanalytically on female sexuality, before Helene Deutsch, for instance(例えば) in her essay on the anal-elotic(1916), an essay admired by Freud. (wiki:Salome)

 更には、ヘレーネのフロイト一派との関わりの際も、ザロメの論文が課題として出てきている。

In 1916, Helene sought admittance(入場を認める) to Freud’s infamous Wednesday night meetings to Vienna Psychoanalytic Society.

 As a condition of her acceptance, Helene had to comment on Lou Andreas-Salome’s paper, ‘Vaginal and anal’. (wiki:Helene)

 ザロメはフロイトだけでなく、フロイト門下の大部分の者からも「吉兆」として歓迎された。かれらはザロメとその友人の若い美貌のエレン(おそらくHelen)の存在が、かれらのいささかわびしい討議に女性的温かみを添えてくれていたと感じていた。※11

因みに、フロイトの娘・アンナはルー・アンドレーアス=ザロメとは、確かに心からの友情で結ばれていた。※10一方、フロイトもその関係もあってか、ザロメには高い評価を与えている。※11

2章.1920年代とウィーンの精神分析

 1910年代にフロイトは精神分析の活動を組織化したが、1920年代には多くの人に精神的支援をほどこす方向に向かったようである。ただ、これはフロイトのみでなく、アドラーや他にも多くの人々がウィーンにおいて精力的に活動したようである。これは第一次世界大戦後などと影響するのであろうか?

 そんな中、児童に対しての精神的アプローチと研究も進んだようだ。特にフロイトも娘であるアンナ・フロイトと、フロイトとは別方面で発達させたメラニー・クラインが児童精神医学に大きな潮流を作っていく。

 また、1920年代のウィーンは精神分析と精神医学が良く交流した時期でもあるようだ。その流れの中に登場してくるのがアスペルガー症候群(自閉症スペクトラム)で有名なハンス・アスペルガーである。ただアスペルガーはどちらかというと精神分析との流れは1930年代に断っていき、ナチスの流れと重なる中で見出されていった概念のようである。

■➀1920年代頃のウィーンと精神分析■

 1920年代頃、当時のウィーンには、児童の発達の研究において卓越していた分野があった。それは精神分析である。アンナ・フロイト、メラニー・クライン(Melanie Klein1882-1960ヴィーン出身の児童分析学者。児童分析の臨床を通して独自の理論を発展させ、クライン学派を生んだ)など支援を必要としているウィーンの子どもに寄り添おうとする精神分析の先駆者たちがあり余るほどいた。アンナ・フロイトは後にこう述べている。「当時のウィーンでは、私たちはみな活気にあふれ、張り切って仕事をしていた。まるで未知の大陸を探検する冒険家のようで、今こそ社会を変えるチャンスだと思っていた。」

 ジークムント・フロイトも、社会活動への呼びかけを行った。1918年、第五回国際精神分析学会でスピーチをした際に、こう語っている。「今では貧しい人にも、外科医から究明の支援を受ける権利がある。それなら同様に、精神面での支援を受ける権利も与えるべきだ」。こうしたフロイトの強い要請を受け、1920年代から30年代にかけて、ベルリンやザグレブ、ロンドンなどヨーロッパの至るところに、精神分析の無科外来診療所が12も生まれた。

 1922年にウィーンに開設された外来診療所では、診断のほか、訓練プログラムを無料で実施した。この診療所の活動に協力していた精神分析医たちは、個人の精神の健康回復を通じて社会を変革(ウィーンの恵まれない人々を助けるという強い社会的使命)しようと、それぞれ自分の時間の5分の1をこの診療所での診察や訓練に充てた。協力した主要人物には、アルフレート・アドラー、エリク・エリクソン、アンナ・フロイトと、エーリッヒ・フロム、カール・ユング、メラニー・クラインがいる。アルフレート・アドラーはウィーンのあちこちに児童相談所を開設し、子どもを支援するだけでなく、その教師や家族への助言も行った。※8

■②カール・ポパーとアドラー■

 ちなみに、哲学者のカール・ポパーはこのアルフレート・アードラーの児童補導相談所である無給の仕事も経験している。ポパーはその頃、父はとうに60歳を過ぎ、戦後のうなぎのぼりのインフレですべての貯えを失ってしまっていたため、重荷になるまいとして1919年から1920年にかけての冬のあいだ、旧陸軍病院の廃用部分を学生たちの手で改造したごく素朴な学生の家で暮らすために生家を出た後であった。この時期のはじめに、ポパーはアインシュタインの理論のような科学的理論とマルクス・フロイト・アードラーの理論のようなえせ科学的理論(独断的態度)との境界づけについての私の考えをさらに発展させた。1919年にポパーは、アルフレート・アードラーの「個性心理学」およびフロイトの精神分析学、さらにはマルクス主義に遭遇している。※9また1919年5月に皆既日食において、太陽の重力場で光が曲げられること(いわゆる重力レンズ効果)がケンブリッジ天文台のアーサー・エディントンの観測により確認されたことにより、一般相対性理論は物理学理論として一定の地位を得て世界のマスコミにも取り上げられる(wiki「アインシュタイン」)。そのときアインシュタインはウィーンで講演を聞いている。このときあたりにアインシュタインは予測と実験が一致しても彼の理論をけっして確立しはしないであろうが、一致しない場合には、彼がまっ先に強調したように、彼の理論が支持しえないことを立証する決定実験を求めている。※9

■③精神分析と精神医学の交流■

 ウィーンの児童の発達の研究において卓越していた分野があった精神分析の実験的試みが活況を呈すると、ウィーンの精神分析医と精神科医の交流も進んだ。精神分析学は個人の内面生活や意識と無意識の関係に目を向ける傾向があるが、精神医学は生理学(とりわけ神経学)とつながっている。両分野では理論的アプローチが異なる。

 このような交流に、ハンス・アスペルガーの上司ともなるラツァールも参加している。1911年にウィーン大学小児病院においてエルヴィン・ラツァールという小児科医が治療教育診療所を開く。市の職員や非行裁判所の裁判官は、子どもの行動を十分に理解しないまま勧告を行い、子どもの運命についてあまりにもいい加減な決定を下している。子どもを施設に入れたり収監したりする前に、児童の発達にかかわる専門家の意見を聞くべきだ。ウィーンに広がる官僚主義の中に専門家を組み込み、子どもの福祉にまつわる決定に科学的根拠を与えなければならない。そう考えたラツァールは、ウィーン大学小児病院に、専門家の意見を提供する診療所を設置したようと思い立った。

 ラツァール自身は、自分の仕事はフロイトやアドラーの理論と密接に関係していると主張していた。ただラツァールが行っていた治療教育は、ウィーンの精神分析学界にあまり受け入れられてはいなかった。ただし1929年までは交流を維持していたようだ。ただし、アスペルガーの時代には(まだオーストリアでは非合法だった)ナチス党に与し完全に交流をしていない。※8

 このようにオーストリアにはユダヤ人を中心に精神分析があり、精神医学とも交流を持っていて両者ともに発展していったが、ハンス・アスペルガーの流れからみるとナチス的な流れが精神分析的見解を廃していったようである。

■④アンナ・フロイト■

 1915~1920年にアンナ・フロイトは教師として働いている。教師の頃からアンナ・フロイトはヴィーン大学神経科病院で毎週行われていた父の講義を聴講した。また、アンナはヴィーン精神分析学会(1902年以来、アードラーたちと研究会を続けていたフロイトは、1908年、ヴィーン精神分析学会を設立、同年、第一回国際精神分析学会をザルツブルクで開催した)で毎週開かれる会議にも参加していたが、そこでは口を閉ざしたまま、議論に加わることはなかった。

 1922年、27歳になってようやく、学会の正式メンバーとなるための規定に従い、アンナはこの学会で最初の講演を行った。つまり、アンナの分析医としての短い専門教育の中身は、父によると講義と分析、そして、もしかするとそれまでに刊行されていたフロイトの著作を勉強することだけだった。これはしかし、1922年の段階ではまだ創始期にあった精神分析の場合、当たり前のことだった。

 アンナ・フロイトの入会講演は「殴打幻想と白昼夢」というタイトルだった。講演ではアンナが扱った最初の患者の一人が問題となっていたが、間接的にはアンナ自身の神経症的問題がテーマでもあった。彼女は当時、自分も白昼夢に悩んでおり、ヴァーレンドンク(Julien Varendonck心理学者。英文の著書Day Dreamingをアンナ・フロイトが1923年ドイツ語に翻訳した)の白昼夢に関する本をドイツ語に翻訳していた。そして、自慰行為による満足と関連性のある殴打幻想も、彼女自身が抱えていた問題だった。これもしかし特に珍しいことではなかった。フロイト自身、『夢判断』において自分の夢をさらけだしているではないか。※10

 1923年、アンナ・フロイトは結婚したようという考えを最終的に捨てたと思われる。しかし彼女は同時に、生活をずっと保障してくれたに違いない教員の仕事も、完全にやめてしまった。ベルクガッセ19番地で、父親の診察室の向かい側に、アンナは精神分析診療所を開設した。アンナは医者でも、心理学者でも、大学卒でもなかったし、父親のもとで一通り勉強しただけだった。同年、父ジークムント・フロイトは癌を発病した。病気の原因は、フロイトが中毒のように葉巻を吸ったことにあり、そのあげく、口腔癌になったのだ。いずれにせよアンナは、それが自分の意志であったか、必要に迫れてだったかは別として、介護者、秘書、精神分析の全権代表、代理人、そして議論相手というさまざまな役割を担った。さまざまな仕事をこなすことで、アンナは自分の本当の力を発揮していった。そこで初めて児童精神分析という領域を開拓した。

 1927年『児童分析技術入門』出版。※10

3章.エリク・H・エリクソン

精神分析家であるエリク・H・エリクソン(1902~1994)はアイディンティティ(自己同一性)の概念を打ち立てた人物。※2

→豊かな臨床経験にもとづく研究をとおして、人間が乳児期から老年期まで、生涯を健康に幸福に生きていく道すじを描き出しました。ライフ・サイクル・モデル(幸せな生き方モデル)とも。

人間が思春期青年期以降にも心理的、社会的に発達することを、世界ではじめて示しました。※1

■➀青年期■

 1902年、ドイツ、フランクフルト出身。

 Erikson’s mother, came from a prominent Jewish family in Copenhagen, Denmark. Little is known about Erik’s biological father except that he was a non-Jewish Dane.

 エリクソンは、不倫によって生まれた私生児だったようで、母親はユダヤ系デンマーク人でしたが、ブロンド、青い眼という、明らかに北欧系の風貌をもっていたので、母親のユダヤ系社会から差別を受け、また、ドイツ人社会からも、ユダヤ人であるという理由で二重に差別を受けて育ちました。

 自らの出生の謎と、生育期に受けた二重の差別に悩み葛藤し続けました。※3

 青年期までのエリクソンは、家庭でも学校でも、ずっと問題児扱いされていました。義理の父親とうまくいかなかったこともあって、家に居場所がないと感じていました。画家を志したものの、絵の才能にも限界を感じ、各地を放浪する生活をしていたのです。※2

■②アンナ・フロイトのウィーンの学校■

 When Erikson was twenty-five(1927),his friend Peter Blos invited him to Vienna to tutor art at the small Burlingham-Rosenfeld School for children whose affluent(裕福な) parents were undergoing psychoanalysis by Sigmund Freud’s daughter, Anna Freud. Anna noticed Erikson’s sensitivity to children at the school and encouraged him to study psychoanalysis at the Vienna Psychoanalytic Institute, where prominent analysts Heinz Hartman (He is considered one of the founders and principal representatives(主要な代表者) of ego psychology) were among those who supervised his theoretical studies. He specialized in child analysis and underwent a training analysis with Anna Freud. Helen Deutsch( She founded the Vienna Psychoanalytic Institute)英語版wiki「Erikson」

 28歳で、ジークムント・フロイトの娘、アンナ・フロイトが開いたウィーンの学校で絵画の教師として雇われる。※3友人の紹介で、アンナ・フロイトがウィーンの外国人の子弟を対象に始めた私立の実験学校で、そこの教師を勤め、弟子となる。アンナ・フロイトは丁度1923年に父フロイトが癌であることが判明し、ウィーン精神分析訓練研究所の所長になったときであった。(wikiアンナ)

アンナからの教えを受け、ウィーン精神分析研究所の分析家の資格を取得。※3

 カナダ出身のジョアンナもまた、エリクソン同様、家庭では問題児でした。実の母親とうまくいかず、顔を合わせるとケンカが始まるという具合でした。ジョアンナもまた、家を離れ、遠くウィーンに演劇の勉強にやってきていました。

 エリクソンが教師として働いていたフリースクールのような学校(アンナ・フロイトが開いたウィーンの学校)に、ジョアンナが仕事を求めて訪れたのです。自分の家にも故国にも居場所のなかった二人は、こうして出会い、恋に落ち、やがて結婚します。“問題児”同士が一緒になって、まともな家庭など築けるわけがないと思うかもしれませんが、二人は、理想的とも言える幸せな家庭を営んだのです。※2

 Simulataneously (same time) he studied the Montessori method of education, which focused on child development and sexual stages. The Vienna Psychoanalytic Institute(1933) and his Montesori diploma( a document showing completed a course) were to be Erikson’s only earned academic credentials for his life’s work. 英語版wiki「Erikson」

■③アメリカへとその影響■

 1933, with Adolf Hitler’s rise to power in Germany, the burning of Freud’s books in Berlin and the potential Nazi threat to Austria, the family left an impoverished Vienna and emigtated to Copenhagen. →the family left for the United States, where citizenship would not be an issue. 英語版wiki「Erikson」

 ナチスによる迫害のため、エリクソンは米国へ渡り(コペンハーゲンを経由し)、1939年に米国籍を取得。※3

 In the United States, Erikson became the first child psychoanalyst in Boston. 英語版wiki「Erikson」

 同じくオーストリアに住んでいてナチスの迫害から逃れ、アメリカにいったピーター・ドラッカーは1933年に亡命し一時イギリスに行き、エリクソンと同じ1939年にアメリカについている。(wikiドラッカー)

 問題行動を起こす青年たちの心理療法に従事し、注目を集めた。※3

 当初、問題行動を起こす青年たちの心理療法に従事し、外の治療機関の手に負えない難しい事例であったにも関わらず、高い治療率を上げた為、注目を集め始めた。(wikiエリクソン)

 エリクソンは精神分析家として健全に育った人たちの共通点を、つまずいた人たちの生活に取り入れてみる…ライフサイクルモデルを使って、治療していったわけです。※9

以下はエリクソンと繋がりがある人たちです。

Dr Carl L. Kline 1915-2005

 He and his wife, Carolyn, began a training program to teach specialized therapists how to work with dyslexic children. Over the years, thousands of such children were given new hope and achieved success as a result of this help. Dr. Kline was instrumental in the establishment of three specialized academic schools in the lower Mainland that help children with learning disabilities.

In the early 1970s, Dr Kline was a guiding force in the formation of the Orton Dyslexia Society, British Columbia Branch, now affiliated with the International Dyslexia Association.(英語版wiki「Kline」)

 クライン教授は、エリクソン本人と親友でした。精神分析を学ぶ仲間として、親しくつきあっていたようです。※1

佐々木正美

著書・日本の学習障害、発達障害に対する一種のパイオニアのような役割を担う。

1970年万博を見終わって、翌日にカナダへ留学。

 ブリティッシュ・コロンビア大学精神科(1970-1971)で精神医学を学ぶ。日本に本格的な日本児童精神がないため、レジデント(住み込み)として。※4

 カナダ・ブリティッシュ・コロンビア大学は世界一コミュニティケアが優れていると書いてあったからです。子どもはクリニックの中だけでは育てられない。慢性の問題を持った子どもたちは、コミュニティをあげていろいろな人の力の中で育てる。バンクーバーを中心モデル。

 指導教授として、アンドリュー・マクターゲットが児童精神医学を教える。彼は、ジョンズ・ホプキンス大学のレオ・カナー教授に指導を受けた医学者だった。

 またもう一人の指導教授として、カール・クラインがいた。彼は、世界的に有名な学習障害の専門家でエリクソンやアンナ・フロイトとも親しい人だった。

4章.ナチス内閣成立とピーター・ドラッカー

1923年、ミュンヘン一揆。ヒューストン・チェンバレンはヒトラーに手紙を送っている。ヒューストンは1890年代ビスマルクを失脚させたヴィルヘルム2世などとドイツ帝国観を一致させた人でもありヴェルヘルム2世と交友もしていた人。

1927年、ヒューストン・チェンバレン死去。ヒトラーは葬儀に参列したようだ。

1932年、ナチス党は経済恐慌で生活に苦しんでいる人々にたくみな宣伝をして勢力をひろげ、恐慌が最もひどくなった1932年7月の選挙で230名の議員を議会を送り社会民主党をはるかにぬいて第一党となった。ドイツの産業は1929年から32ン面にかけて、その生産は半分にへり、失業者は600万に達した。こんな時代にナチス運動に加わった人々は、地位親は第一次世界大戦で戦死し、母親の腕一本で育てられ、やっと一人前になったときには不景気で就職もできず生活の楽しみも与えられず、ナチスに入って同じように世の中をうらんでいる仲間を見出した、という人が多かった。

ただし、議会の過半数には遠く及ばず政権はヒットラーの手にはわたってこなかった。※6

そんな中、1931年にドイツ・フランクフルト・アム・マインの「フランクフルター・ゲネラル・アンツァイガー」紙の記者であったピーター・ドラッカーが、国民社会主義ドイツ労働者党(ナチ党、ナチ)のアドルフ・ヒトラーやヨーゼフ・ゲッペルスから度々インタビューが許可されている(Wiki「ドラッカー」)。

ピーター・ドラッカーは1929年に世界恐慌の株価暴落により、米国系証券会社のフランクフルト支店の見習い証券アナリストとして働いていたが失業している。このときドラッカーは雑誌に寄稿した論文でニューヨーク株式市場を計量分析して値上がりすることを予測しているが、実際には予測した週間後ウォール街は大暴落に見舞われた(「暗黒の木曜日」)。これ以後、相場について一切の予測をやめた。

その後、同じく1929年にフランクフルト最大手の新聞社「フランクフルター・ゲネラル・アンツァイガー」の金融担当記者にならないかと誘われて入社し、すぐに上級編集者に昇進した。担当は国際ニュースと経済ニュース全般。第一次世界大戦のためにドラッカーのすぐ上の世代が少なかったという事情がありすぐに昇進したようである。また働きながらフランクフルト大学に単位を移しているが、ドイツ人ではなかったことから、法学博士号はとれず国際法・国際関係論の博士号を取得している。また、国際法教授の代役として登壇したさい後に結婚するドリスを見初める。ドリスは受講者であった。※5

1933年、ヒトラー内閣発足。

台頭する共産勢力に対して、ロシア革命の二の舞を避けるため。(wikiヒトラー)

このときの大統領は1932年に一回目の任期が切れヒトラーと選挙を争ったヒンデンブルクである。ヒンデンブルクは第一次世界大戦においてルーデンドルフとのコンビで有名である。そしてこのヒンデンブルクが最終的にしぶしぶヒトラーを首相に任命する。85歳であるヒンデンブルクはかなり老衰していたという。(wiki「ヒンデンブルク」)

ドラッカーは、この病んだ時代に対抗するために、ナチスと関係が持てなくなるように、3人の知的業績をたどる本を書き始める。4月に「保守主義と愛国主義の名において、激動の1930年代における模範と教訓を示してくれる人物としてシュタールを位置づける」論文を出版し、発禁処分に付される。シュタールはユダヤ人だった。※5論文ではナチスの非合理的な政治思想の伸長を危惧しており、伝統的保守派の象徴であるシュタールを再評価することでナチスに異を唱え、自由と平和を第一義とするヨーロッパの基本的信条を訴えた。シュタールはビスマルクが1862年にプロイセン王国の議会が軍拡問題で混乱したときにシュタールの空隙説「主権者である国王は憲法に明確な規定がなたいめに起こる空隙を埋める権力がある」を唱えて軍制改革を行い、富国強兵によりドイツ統一を進めたりして用いられたりもしたようだ。※7

その後ドラッカーは、ヒトラーが政権を得てから数週間後に開かれたナチス主導による最初の教授会にて、ユダヤ人教員の即刻解雇の宣言に対する大学側の対応に胸がむかつき、48時間以内に絶対にドイツを出ようと決心している。※5

 1934年、大統領ヒンデンブルクが86歳で亡くなり、ヒトラーは大統領職を継ぎ、大統領・首相・党首の3つに就き最高権力となる。「大統領」はヒンデンブルクへの敬意から廃止し、「総統」となる。(wiki「ドイツ国大統領」)ドイの古都ニュルンベルクでは党大会が開催され、「一つの民族 一人の総統 一つの帝国」というナチスのスローガンが生まれた。※6

1936年、ベルリン・オリンピック。この年にヒンデンブルグ号も運航。

5章 マーガレット・S・マーラー

Margaret Mahler(1897~1985)

■①フロイト一派との関わり■

 ユダヤ一家に生まれる。

 1910年代、She attende Voce Utcai Gimna zium in Budapest, She met the influential Hugarian psychoanalyst Sándor Frenzi, became fascinated by the concept of the unconscious, and was encouraged to read Sigmund Freud(Frenzi: close associate of Sigmund Freud).

 1926, There she turned from pediatrics to psychiatry and started her training analysis with Helene Deutsch.

 アンナ・フロイトは丁度1923年に父フロイトが癌であることが判明し、ウィーン精神分析訓練研究所(Viena Psychoanalytic Training Institute)の所長になっていた時期。またエリクソンはマーガレットがヘレーネ・ドイチュで学び始める翌年(1927)にアンナ・フロイトがウィーンの外国人の子弟を対象に始めた私立の実験学校で、そこの画家としての教師を勤め始めている。ヘレーネはザロメに続く1910年代にフロイトのもとで学び始めたメンバーで、この頃はアンナ・フロイトとともに精神分析の普及に努めていた。

 1925,Helene published 『The Psychoanalysis of Women’s Sexual Functions』.

 In it, she argued that, in the phallic stage(男根期 肛門期に続く第三ステージ:the third stage of psychosexual development, spanning the ages of three to six years, wherein the infant’s libido centers upon their genitalia(sexorgans that are outside their body) as the erogenous zone:phallic satage enwiki).

 That same year, Deutsch created and became the first President of the Vienna Traing Institute.(Helene Deutsch :en-wiki).

 この時期にヘレーネがウィーン精神分析訓練研究所を設立し初代所長になり、アンナもここで教えるようになり、のちにアンナが所長になるという流れなのではないかと思う。そんな中にマーガレット・マーラーはヘレーネのもと精神分析を学び、またエリクソンはアンナが別に設立した学校において画家の講師として雇われるも才能を認められ精神分析をアンナから学んでいる。

 またこの時期にティファニー創設者チャールズ・ルイス・ティファニーの孫娘であるドロシー・ティファニー・バーリンガム(Dorothy Trimble Tiffany Burlingham1891-1979、息子ルイス・コンフォート・ティファニーの娘)が子どもの治療のために、ヨーロッパとアメリカの両方で精神分析という分野がよく知られるようになったことから、ウィーンに移りジークムント・フロイトのもとで分析を開始し、息子の皮膚疾患が消えている。その際、バーリンガムはアンナとも会っていて、バーリンガム自身も精神分析を学び始めアンナとも親しくなっている。(Dorothy Burlingham:en-wikipedia)

1933, Seven years later, she was accepted as an analyst. Working with children became her passion. She loved the way the children gave her their attention and showed their joy in cooperating with he.※13

■②アメリカへの渡米と精神分析への寄与■

 1936年(ベルリン・オリンピック)ナチ台頭を恐れイギリスへ、1938年アメリカに渡る。

 おそらくドラッカーより一足遅く、エリクソンより一足早い(あるいは同じくらいの)タイミングと見られる。

 1938,Following the Nazis’s to power, the couple moved to Britain and then, to the United States. After receiving a New York medical kicense, Margaret Mahaler set up private practice in a basement and began to rebuild her clientele.※13

1939,he joined the New York Psychoanalytic Society.※13

 ニューヨークの精神分析協会とは、In 1911 founded by Dr.Abraham A Brill, the oldest psychoanalytic organization in the United State.(New York Psychoanalytic Society:en-wiki)

 アブラハム・ビルとは、1907頃he met Freud, with whom he maintained a correspondence unitil Freud’s death. 1908, He returned to the United States to become one of the earliest and most active exponents of psychoanalysis, being the first translation of Freud appeared in 1909 as Some Papers on Hysteria.(Abraham Bill:en-wiki)

 1940, After giving a child analysis seminar. She became senior teacher of child analysis.

■③スポック博士■

1939年ベンジャミン・スポック(36歳)と出会う。(wiki「マーガレット・マーラー」)

※Benjamin McLane Spock1903-1998『スポック博士の育児書』The Common Sense Book of Baby and Child Care(1946)が世界的ベストセラー

 マーガレット・マーラーはアメリカにおいて「乳児の心理」を見出し有名になっていくことから、この時の交流は重要ともいえる。

 Influential author like

・behavioral psychologist John.B.Watoson1928『Psychologist Care of Infant and Child』

・pediatrician Luther Emmett Holt

1894『The Care and Feeding of Children: A Catechism for the Use of Mother and Children’s Nurse』→told parents to feed babies on specific schedules and start toilet training at an early, specific age.

Watson, Holt, and other child care experts obsessed over rigidity because they believed that irregularities in feeding and bowel movements were causing the widespread diarrheal diseases seen among babies in the late nineteenth and early twentieth centuries.

Furthermore, these experts, whose ideas were embodied in infant Care pamphlets distributed by the U.S.government, warned against “excessive” affection by parents for their children. To maintain sterility and to prevent from becoming spoiled or fussy, these experts recommended kissing children only the forehead and limiting hug or other displays of affection.

As a practicing pediatrician in the 1930s, Spock noticed that prevailing methods in pediatric care seemed cruel and ignored the emotional needs of the child. He wanted to explore the psychological reasons behind common problems seem during practices like breastfeeding (human breast milk is fed to a child) and toilet training, in order to give less arbitray advice to mothers who came to his practice. He thus became trained in psychoanalysis, emerging as the first pediatrician with a psychoanalytic background.

Seeking useful ways to implement Freudian philosophy into child-rearing practices, Spock would try out his advice on patients and their mothers, continuously seeking their response. He contradicted contemporary norms in child care by supporting flexibility instead of rigidity and encouraging parents to show affection for their children.

1938, Although Spock was approached to write a child-care manual by Doubleday(American publishing company), he did not yet feel certain enough of his professional abilities to accept the offer. Eventually, though, after several more years of giving advice to mothers, Spock felt more convinced of his advice and published a paperback copy of 『The Common Sense Book of Baby and Child Care』in 1946 with Pocket Books. His intent in writing the book was to disseminate comprehensive information to all mothers, giving advice that combined the physical and psychological aspects of child care. So that any mother could afford it, the book was sold at just twenty-five cent.

The Common Sense Book of Baby and Child Care is arranged by topics corresponding to the child’s age, ranging from infancy to teenage years. Drawn from his career as a pediatrician, Spock’s advice is comprehensive, dealing with topics such as preparing for the baby, toilet training school, illnesses, and “special problems” like “separated parents” and “the fatherless child”.

Unlike leading care experts prior to the 1940s, Spock supports flexibility in child-rearing, advising parents to treat each child as an individual. Drawing on his psychoanalytic training, he explains the behavior and motivations of children at each stage of growth, allowing parents to chapter devoted to “The One-Year-Old”, in which he explains that babies at this age like to explore the world around them. He then suggests ways to arrange the house and prevent accidents with a “wandering baby”.

Spock emphasizes ultimately, the parents’ “natural loving care” for their children is most important. He reminds parents to have confidence in their abilities and to trust their common sense; his practice as a pediatrician had proven to him that parents’ instincts were usually best.(The Common Sense Book of Baby and Child Care:en.wikipedia)

【参考文献】

※1…『あなたは人生に感謝ができますか?』佐々木正美、講談社、2012.10.29

※2…『なぜいつも“似たような人”を好きになるのか』岡田尊司2014.9.10青春出版

※3…日本メンタルヘルス協会テキスト

※4…『TEACCHとの出会い』blog.livedoor,jp/budouno_ki/archives/51529849.html/

※5…『The world according to Peter Drucker』Jack Beatty 1998 Broadway Books 邦訳は『マネジメントを発明した男 ドラッカー』(訳)平野誠一1998.4.16ダイヤモンド社

※6…『劇画 ヒットラー』水木しげる1990.7.31ちくま文庫

※7…heeps://starfot.cocolog-nifty.com/voorlihter/2022/09/post-8ecfd9.html

※8…『アスペルガー医師とナチス』エディス・シェファー (訳)山田未明 光文社2019.6.30

※9…『果てしなき探究(上)』K.ポパー(訳)森博、1995.12.15岩波書店

※10…『彼ら抜きでいられるか』ハンス・ユウゲン・シュルツ(訳)山下公子ほか2004.8.31新曜社

※11…『ルー・サロメ』1990.10.30 H・F・ペータース (訳)土岐恒二・筑摩書房

※12…『マンガ ユング深層心理学入門』石田おさむ1997.1.20講談社

※13…Margaret Mahler en.wiki